Saturday, August 23, 2014

比較 の 無意味さについて

シャンタンさんより引用

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あなたの前に今困った人がいるとするなら、それは単にあなたが
その人を困っていると認識しているだけであり、あなた以外に困った人など
存在していないのです。あなたが困っているだろうと想像しているだけなのです
津留晃一さん
 「比較」それが人の混乱の始まりです。
比較のないところに迷いも混乱もありません。
果たしてどちらが有利であろうか。
どちらが私にとって都合がいいのであろうか。
どちらが果たして幸せへの道なのだろうか。
 比較は常にあなたを悩ませます。
どちらを選ぶべきか判断がつかないところが迷いでしょう。
選択のミスジャッジがあなたに後悔という感情を誘発させます。
あなたはそれを恐れています。
未来の不安というエネルギーが今のあなたを縛っている状態です。
悩みとは、あなたの意識が今この瞬間から離れた状態のことです。
 比較したときに初めて損したという感情が起きます。比較して初めて間違ったと判断します。比較しないかぎり、損をしたという思いは起きてこないでしょう。比較判断のないところには結果さえ存在できないのです。
 ではどうしてあなたは比較をするのでしょう。
比較から混乱、苦しみがやってくるのなら比較しなければ良いのではないでしょうか。それは、結果には「良い結果」と「悪い結果」とがあるとするあなたの考え方に起因しています。
私にとって「都合の良い事」と「都合の悪い事」があるのだ、とあなたは信じ込んでおり、これまでそのことを疑ったことさえなかったのではないでしょうか。
 この世に「良い事」と「悪い事」はないのだ、本当にそんなものはないのだ、右を選べば右の道があり、左を選べば左の道があるだけである、と伝えられました。
右の道を選べば右の体験があり、左の道を選べば左の道の体験があります。その体験に、良いも悪いもありません。ただその体験をしているだけです。そして右を体験しつくした人はその体験による学びが終わり、次には自ずと左の体験を望むようになってきます。
 人はあらゆる体験をするために肉体を持ちました。神には出来ないあらゆる体験をするためにです。
そして単にまだしていない体験に対して欲望がわいてくるようになっているにすぎません。
 従ってあなたは望むとおりに、欲望どおりに、行動を起こしていけばいいわけです。そのことに意味をつける必要はありません。
比較する必要などありません。あなたは全ての体験をしつくすために今ここにいます。そこには人殺しをした後の強烈な後悔の念を体験してみるという事も含まれていたようです。
今あなたが人殺しをしようと望まないのは、きっと既に過去世でそういう体験を終わっているからなのではないでしょうか。
先生や、親から、人殺しはいけないと教わったから人殺しを否定しているわけではないはずです。そんなことは教わる前から知っていたのではないでしょうか。それはあなたの過去世にある魂の記憶に由来しているのだと思いませんか?
 だとしたら人殺しでさえ大変貴重な体験であったといえるはずです。あなたのする体験に「良い体験」も「悪い体験」もありません。
あなたのする体験に「得な体験」も「損な体験」さえもありません。ですから起こってきた結果を比較することにどんな意味もありません。
 このことが心の底から本当に理解できたとき、あなたはもはや比較や判断といった古めかしい習慣から解放されることでしょう。あなたは右にしようか左にしようか迷わなくなります。
それはどちらでも良いからです。その心境がブッダの言った中なる道、「中道」ということなのではないでしょうか。そこが我々の目指す最終ゴール、ニュートラルポイント、宇宙の始まり特異点のことです。
私は「全ては一つ」という概念から、あらゆるものの統合を目指してこれまで一貫して進んできました。私の中に「どんなものとも決して別々のものではありたくない」という強い強い思いあったからです。
 私は小さい時から、見たくないものがありました。それは人の諍いです。人と人の対立がイヤでイヤでたまりませんでした。小学生のころ、先生が生徒を叱りつけているのを見るのが、一番の苦痛であったことをはっきりと記憶しています。
 今回、私がここに生を受けた理由がそこにあります。そんな私の求めつくしたものが完全なる調和でした。物質と精神、善と悪、東洋と西洋、右脳と左脳、良い事と悪い事、そして自分と他人、そうしたあらゆる二極の対立の統合が目的でした。
 その進む課程の中で私の意識は右に揺れ、左に傾きながら歩んできました。他人の言葉を聞き、現実を見て、意識は上がったり下がったり揺らぎ続けてきました。全ての統合を目指して。大いなる一つに帰り着くことを目的として・・・。
 しかしその「大いなる一つ」とは、目指すゴールではありませんでした。それはもう既にここにありました。元々それは今ここにあった事に気付きました。「無」とは今ここの「有」の裏側にそのままありました。「無」に帰り着く必要などなかったのです。
「無」とはこの「有」なる世界を表現する土台と考えればいいでしょうか。「無」を体験してみたければ、あなたの意識をくるりと裏返しにひっくり返してさえみれば、そこにそれを感じるでしょう。
ちょうどメビウスの帯を立体的に作ったものを想像してみると解り易いかもしれません。
 今が一つ、ここが一つ、今このままでここが一つです。
 ここが無、この表現が無、この裏返しが無、このまま、そのままで無です。
 今ここが完全なる一つだからこそ、この完全なる二極の次元が存在できます。
ですから全てのものが今そのままで完全です。
このことが解った瞬間、自分の中の欲望が雲散霧消していることに気付くでしょう。そのとき大安心の境地にいる自分自身を観ることでしょう。
 あなたの前に今困った人がいるとするなら、それは単にあなたがその人を困っていると認識しているだけであり、あなた以外に困った人など存在していないのです。あなたが困っているだろうと想像しているだけなのです。
 「いや、現に病気で困っている人がいる」とあなたは言います。それでも私は言います。
ずっとずっと上から眺めてみると、病気の振りをして何かを気付かせようとしている人と、
その人を見て混乱するという体験を学んでいるあなたがいるだけであることが解ります。
 本当の意味で困っている魂など、どこを探しても見つけだすことは出来ません。
そしてこの言葉を受け取るか、拒否するか、あなたがその絶対的選択権を持っているのです。
あなたは創造者です。初めも、そしてこの瞬間も。そしてそうでない振りをすることさえあなたには可能であったということです。
 宇宙の特異点とは今ここに無限にあり、それは皆様方一人一人のハートチャクラの中心にあります。
瞬間瞬間の今ここにあります。
未来のいつかにではなく、そうだと悟ったとき、それは今あなたのそこにありました。
 欲望を通して求め、求め尽くして・・・、そして調和は元々初めから今ここにありました。
ここがこのままで大調和そのものの世界であった事に気付きました。
もともと不調和などどこにもないのだと解りました。
大宇宙のほんの一部を近視眼的に、そのミクロ部分をとらえたときに、
そこが不調和と映っているにすぎないのだと悟りました。

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