Sunday, November 30, 2014

舞学 第1章 大陸を超える いのちのうた -The Art of Dance and Music , Song of Life beyond the continent ー


このコンサートを企画・構成・演出し出演したすべての背景には わたしの深い想いがあった
一見アフリカの為のイベントと思われたかもしれないが
これはすべてのいのちのために わたしは行ったつもりだ

アフリカを想うことは つまり日本を想うこと
日本やアフリカを想うことは つまり世界を想うこと
あなたを想うことは わたしを想うこと
わたしを想うことは あなたを想うこと

アフリカ人だろうが 日本人だろうが
政治家だろうが 乞食だろうが
大人だろうが こどもだろうが
全く 関係ない
一人一人が その魂の奥の奥の 光を 感じるということ 思い出して
一つ一つの魂が その光を輝かせている世界を 想像 してみよう

そのために わたしは この日 唄い 踊り 言霊を発しました
それは わたしの 祈り。

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Chapter 1 . 第1章 心の扉を開いて

( Photographer : Nohoru Chokken Takemoto )
たとえ小さな表現であっても、その心によって人々の心が開いたり
それぞれが自己や自然の美しさを見つめ直す機会になるかもしれない
すべてのいのちの為に、そして未来の鍵を担う子どもたちの為に
このエネルギーを使いたいと思う
Even the small expression, it might be the chance for others to think of their own lights, worth of life, the beauty of nature.
I would love to use my life to inspire the world and children who will keep this bridge for our Mother Nature.


1. Drum solo by David Sylla
ギニアより情熱的な太鼓を披露するダビッドさん

2. First Nations Traditional Drum solo by Maki Kawamoto
  アメリカ先住民族伝統の太鼓

3. Xylophone by Maki Kawamoto
  ガーナ北部の伝統楽器 木琴 
4.  Drum Workshop by Toku san
  ドラムワークショップ をするとくさん
5.  Contemporary Dance with Veil by Maki Kawamoto 
  ベール・コンテンポラリーダンス

4. Photo Slide Talk about Ghana, Africa by Maki Kawamoto
ガーナで撮影した写真と共にガーナの現状を語る

5. Poetry by Maki Kawamoto with Guitar by Kan Kawamura
 詩の朗読 と ギター生演奏 児童労働や孤児院、人身売買をみてきた  Makiの想いを綴る

6. Seperewah and Song by Maki Kawamoto with Shakers by Toku san
  ガーナ伝統楽器セペレワを生演奏しながら、アフリカの有名な詞、マライカをMakiがアレンジし、Tokuさんのマラカスと共に弾き唄う。

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「舞学」 大陸を超える  いのちのうた
11月15日 大野福祉保健センター コンサートホール
14:00会場 14:30開演 16:20終演
2014おおの文化祭
第24回廿日市市生涯学習フェスティバル
アフリカ教育支援チャリティーコンサート
主催:廿日市市文化協会大野支部
共催:廿日市市教育委員会
後援:廿日市市・大野商工会
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舞、唄、言霊のすべては
いのちの音であり 祈りです
それは循環し いのちは変わり続けます
いきるということ
わたし の 命をたいせつにするとは?
それがわからないと
自分が愛せません
自分を愛せないならば
真の幸せとは 何か わかりません
真の幸せとは何かわからなければ
人を真に愛せません
人を真に愛せなければ
わたしたちは人を裁き続けます
人を裁けば 戦争が生まれます
わたしたちは わたし自身の
いのちをたいせつに していたのでしょうか?
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私のいのちの物語は
舞によって扉が開かれました
舞によって真を学び
舞によって私の言霊は紡がれて
詩となり 唄となり 音となり
わたしの いのちのうた が
うまれました
ながい旅路の途中
たくさんの喜びや悲しみを超えて
私の故郷 大野の地で
唄い 舞わせて頂けることに
感謝いたします
共に時を重ねてくださる素敵なアーティストの皆様
準備に多大な努力をしてくださった主催:廿日市市文化協会大野支部の皆様、共催:廿日市市教育委員会の皆様、後援:廿日市市・大野町商工会の皆様、そして貴重な時間を費やし足を運んでくださる皆様すべてに
感謝の想いでいっぱいです
ともに いのちを大切に 感じる
瞬間となりますよう
祈りと愛をこめて。
Maki Kawamoto


アメリカ先住民族伝統の太鼓



ギニアより情熱的な太鼓を披露するダビッドさん

ガーナ北部の伝統楽器 木琴 



ベール・コンテンポラリーダンス

ドラムワークショップ をするとくさん

詩の朗読 と ギター生演奏 児童労働や孤児院、人身売買をみてきた  Makiの想いを綴る






ガーナで撮影した写真と共にガーナの現状を語る










  ガーナ伝統楽器セペレワを生演奏しながら、アフリカの有名な詞、マライカをMakiがアレンジし、Tokuさんのマラカスと共に弾き唄う。


Thursday, November 27, 2014

After the ' Vision of Yoga ' Teachers Training by Master Sudhakar - マスタースダカ―によるトレーニングを終えて-





テーマは「 REAL 」だとマスターが直感で決めたとき
わたしの体には 稲妻が走ったようだった。

わたしの人生という物語の途中で この時期に このタイミングで・・
信じられないくらいに
まさにここにくるべくして来たこと、お導きであったことを理解し
そしてその道にきちんとたどり着けたことに心から感謝した。
どう考えてもこれは神さまからのサインだった。

長い長い道。しかしそれがわたしのずっと求めていた真実の道。

マスターは一言聞いたのだった。



Do you RESPECT yourself ? How ?

自分自身を尊敬していますか? どのように?

Are you REAL ?

あなたは 本物・真実ですか?



自分自身を尊敬する・愛する、ということ
これはほんとうに気が遠くなるような・・深い深い、言葉であった。

それは決して他者が理由にならない、純粋な己の魂の行為。

比較・競争社会の激動に揉まれ慣れた人間にとっては
他者を理由にしない、比べないことだけでもどれほど大変な作業だろうか。

執着を引き剥がす作業はまるで固まっている筋肉をゆっくりゆっくりとほぐす作業と同じで、根気がいる。そういう時こそ深い、深い、呼吸をしなくてはいけなかったのだ。

しかしわたしたちがやってることといえば、固まった筋肉に追い打ちをかけるように心も追い詰め、見せかけのポーズへと急ぐ。

それはつまり「結果」への執着であった。己から逃げるように。いま、ここ、から。

それは一体何の為か。
他人や社会から評価を得たいからではないのか。
死ぬまでそれを続けるのであれば、わたしたちは立派な「乞食」であると。
他人や社会からの評価の為に生きる奴隷であり、わたしたちは己のリーダーではない。

柔軟性が高いことや美しいプロポーションのイメージが先行している巷のヨガは、一体何を求めているのだろうか。
それがもし他人や社会の評価を得たいが為に「真の自分」を殺しているならば、
それは「乞食」の行為ではないのか。

また、「ありのままで良い」という言葉は、一体どのような意味で使用されているのか。

今のわたしは、時空を超えて輪廻しているこの魂が、今世は「川本 真紀」として体を借りているけれども、その体はご神体と同じく祭壇であるということを、このごろ体を洗うたびに感じるのだった。祭壇を綺麗にしておく儀式を毎日している。

今世での学びを果たす為にこの祭壇をお借りしている、いただいたその体に不満を抱くことなく、ありのままの体を愛すことは決して間違っていない。

しかし、たくさんのご神体を移動しながら輪廻しているこの魂の学びに対して
「ありのまま」でいいわけがない。

回転するということは 学んでいるということであり
魂が学んでいない状態で感情に流されるだけならば それは回転・輪廻でない。

回転する行為が伴わずして、チャクラの話をする意味があるのか?
行為・体験が先である。

身も心も満たされた「空」の状態で汗をかくことはない。
ヨガとは哲学であることを知った今、いかにマットの上で汗をかかずに至福に近づけるのか、を探求するスタート地点に立たせていただいた。
巷で流行っている「ホットヨガ」とは、まるで海外で流行る「ホット日本舞踊」のような感覚に襲われた。
そこに真の日本舞踊の精神性や美しさが得られないことは、誰の目にも明らかだろう。
フィットネスと芸術は異なる。

「一日のうち残りの23時間に影響しないアサナであったならば、その1時間のマットの上のアサナはアサナではない」と教えてくれたマスターの言葉を
わたしたちはいかに重く受け止めるべきか。

日常のわたしの「思考」・「言葉」・「行動」のすべてがわたしたちの日常のアサナであると私は感じた。それは私達のマットの上に全て現れてしまうのだ。

自己を受け止めているフリは誰にでもできる。しかし真に受け入れるには強靭な精神力と自己への信頼が必要となる。それは並大抵のことではない。

私達の敵は私達の「恐怖」なのだった。

しかしわたしは、踊る者として・唄う者として・言霊を発する者として、自己の真実に生きることを誓ったときから、その「己の恐怖」と戦い続けている。

人間の「生」そのものがすでにいのちの芸術だと思っている。

しかし自己に問うことを十数年続けてきても、
マスターの前では粉々に何かが砕けてしまう。
それだけでは全く駄目だったと。

たとえ自己に問い続けても、「他人の問題を自分の問題にしている」限り、魂の至福はやってこない。そのことにマスターは気づかせてくれた。

「繋げてはいけない」ということ。
「内側から発する力のみが、生命を創造し、
外側から加えられた力によって生命は破壊される」こと。

「正しさ」と「真理」は異なる、ということの意味をずっと考え続けていたわたしには、何か心のひっかかりがすーっと取れたような気がした。

もう、「正しい」や「間違い」を裁く時代が終わるんだ、とふと直感がした。

外側から力を加えて「変えようとしてはいけない」ことを
決して私は忘れまいと、改めて確信した。



愛という名のもとに、わたしは相手の固くこわばった筋肉を一生懸命ストレッチして伸ばそうとしていた。

筋肉は固すぎて、ストレッチしようとするわたしの身も心からも血が流れていたというのに、それでも何かを信じて涙を流しながらずっと伸ばそうと頑張り続けて、
最後にその筋肉も私の筋肉も切れた。


なぜ、その筋肉を「緩める」ことから始められなかったのだろうか。

なぜ、その筋肉が「呼吸する」ことから始められなかったのだろうか。

そして同時に、その筋肉を「緩める」ことにわたしは執着し、繋ぎ、自分の問題にしてしまい、自身の首を締めてはいなかったか。

結論を急いではいなかったか。

そして手放すということが愛でもあることを気づいてはいなかったか。

ならばなぜそれができなかったのか。

相手を本当に信頼していたのか。

それは恐怖ではなかったか。

そこに、己の魂に対する尊敬と愛が本当にあったのか。




この一連する全ての問いかけは明らかに私の中の膿を洗い出し、

ほんの一歩だけ、真の光に近づけるようにそっと扉を開いてくれた。

それはまるですべてのいのちが持つ自然治癒力のような、

そんな扉ではないかと、わたしは考える。


それは、まさに内側から発する力、光。

それだけが、真の生命を創造する。



何年かかるか、今世でできるのかわからない。

けれどもわたしは、その光が全ての人々の内側に宿っていることを感じてもらえるような魂の行為でありたいと、

社会に還元できるような場所を創造したいと考えている。

そのツールはマスターの教えてくれた真のヨガであり、

わたしのいのちでもある「舞踊・唄・言霊」でもあり、

生きるという芸術を通して生涯表現し続けることでもある。




マスターのくれたこの証書はわたしに囁いてくれる。

わたしは単なる架け橋にすぎないのだということ、

また結果に執着するのではなく、ただ己の魂を真に輝かせ「行為」をしなさいと。

その扉を開けることのできたことへの祝福。

旅路は長いけれども、

この静かで深い感動と魂の幸せは、とても言葉ではまだ表すことができない。







―2014年11月27日 Maki-







Monday, November 17, 2014

「自分が正しい」の観点にあなたが立ったとき By シャンタンさん






あなたが「自分は正しい」の観点に立った時、
相手も「自分は正しい」の観点から、発想を始めます。
津留晃一
 私はいつも、いつも考えてきました。
何が正しいのか。
そして正しさを選び取ろうと生きてきました。
正しいものがあると信じ込んでいたからです。
私の頭はいつも何が正しいのかを決めようと
絶えず忙しく働き続けていました。
「正しい」「間違い」はない、と頭が理解した後もなおです。
頭ではわかっていながら、やっている事はいつも
知らず知らずのうちに何が正しいのかを探しています。
ふと気付くとまたやっています。
自分の中にいるもう一人が。
潜在意識の中にしまい込んだプログラムに基づいて、
すぐにロボット機能が活躍を始めます。
私達が無意識のうちに呼吸をしているように、無意識のうちに
心は何が正しいのかを決めようと一人で働いています。
このロボット機能を解除できるのはあなたの表面意識です。
このロボットの再プログラミングは、
意識的反復操作によって可能です。
「あっ、またか」と咎める必要はありません。
単純に繰り返して下さい
「何が正しいのか決める必要なんかない」という言葉を。
 考えて、考えて行動する人は、自分の行動に自信を持っています。
自分が間違ってないと信じられるからです。
正しい人生を送りたいと考えている人は、
常に自分が間違えていないかをチェックし続けています。
いつも意識して、意識して考え抜いて出した結論ほど、
自我はその考えに対抗する意見には従えなくなってしまいます。
相手が間違っているとしかおもえないからです。
自分が正しいのであれば
相手は間違っているに決まっていると発想するからです。
特に意見の対立がある場合にはさらに深く考えます。
どちらが正しいのかを。
そして考え抜いて出した結論ほど修正が難しくなります。
あなたの目の前にある
鏡からのメッセージが受け取りにくくなります。
 登校拒否のお子さんを持つ親はさらに難しいものです。
自分が上から見てしまうからです。
この「親」という観点からものを見る場合、
それは「自分は正しい」という観点からものを見ている事と同じになります。
ですからお前は間違っているという観点から話をします。
相手を説得しようとしているのがその何よりの証拠です。
どうぞ気付いて下さい。
「相手に伝えたい」と思う心は、
「自分が正しい」という観点からの発想である事を。
「相手に言ってあげたい」と思う優しい心も「私は間違っていない」
という観点から発しているのだという事をです。


今日もシャンタンさんによる
大事なメッセージをここに載せさせていただきます。


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あなたが「自分は正しい」の観点に立った時、
相手も「自分は正しい」の観点から、発想を始めます。
こうして対立が生まれます。
あなたが正しさの立場を離れない限り、
対立相手もそこを動きません。
よく勉強した人ほどこの落とし穴にはまります。
考えぬいたぶん、この穴から出づらくなるわけです。
この宇宙は反転した世界であるという法則を思い出して下さい。
あなたが反転しない限り、この穴からは出られません。
自分の中から出て下さい。
今その体験をしている人に
どうして間違っていると言えるのでしょう。

親が子を心配する純粋な親心が、
どうして子供に受け入れられないのでしょうか。
自分の心の中に一体どんな対立関係があるというのでしょうか。
その謎を解いてみませんか。
あなたが子供にわかって欲しいと思っている分だけ、
あなたの親である宇宙も子であるあなたに
わかって欲しいという思いを出しているのかもしれません。